炭酸泉源の始まり
昔は『毒水』と恐れられていました
鳥地獄 虫地獄 炭酸地獄
こぶし道(外周道路)からととや道(六甲山登山道)に入る左手に鳥地獄、虫地獄、炭酸地獄の三つの碑があります。この場所は、射場山(巧地山)と愛宕山の谷筋にあたり、谷は炭酸泉源公園へと向かいます。炭酸ガスが湧出するこの場所に虫や鳥が炭酸ガス中毒で死んでいる姿を見てこの名前が付けられたのでしょう。炭酸泉が有用な水であることが証明されるまで、地元の人たちは近寄らなかったそうです。現在は、度重なる水害で土砂に埋まりかろうじて碑のみが確認できる状態ですが、昔の絵葉書には名所として当時の姿が残されています。
梶木源治郎顕彰石碑
有馬温泉の銀泉の源『炭酸泉源』の歴史はこの『梶木源治郎顕彰石碑』に書かれています。
碑文を要約しますと
『攝津國有馬郡湯山町杉谷に湧泉があり炭酸ガスを含む。この水は胃弱、留飲、疝癪、風毒、渇気、鬱証及婦人諸病に効果がある。この炭酸泉の発見は故梶木源治郎よるものである。梶木源次郎は庄屋から戸長(町長)となり湯山町の発展に尽くした人物である。
源次郎は住吉に向かう途中で平野留吉という横濱の人に出会う。留吉は「温泉有るところには必ず藥水がある」という。源次郎は杉が谷の毒水のことに思い至り、炭酸泉を発見する。この炭酸泉は、当時毒水と呼ばれ人は近かずかなかった。内務省司藥場検定を経て、遂にこの炭酸泉を開いた。明治六年のことである。(後半は、地元に対する功労が綴られている)』と記されています。
杉ケ谷の炭酸泉源(当時は「冷泉」と呼ばれていました。)はその後、だんだんと評判を呼び、湧き口を石の円筒で囲い周囲を石で方形に囲うなど整備され、源次郎の進めた開発により明治10年代には観光の名所になりました。泉源から湧き出る天然の炭酸水をコップに汲んだものに砂糖を入れて観光客に販売されていました。時期は不明ながら、それに甘味料を添加し、まさに「サイダー」といえそうなものも販売されていたようです。泉源を守る上屋は、1886年(明治19年)温泉寺の奥の院の清涼院が、廃仏毀釈で解体されることになり、その際に堂宇を移築されたものと伝えられています。
当時、地元の子供達は、炭酸水を一升瓶にわけてもらい、家に持ち帰り砂糖を入れ手作りサイダーとして飲んだとのことです。今のように清涼飲料水がない時代、特に夏場は最高のおやつだったそうです。炭酸水を瓶に詰め炭酸坂を下る途中で、振動を受けて一升瓶のコルクの栓が勢いよく弾き飛ばされたそうです。有馬サイダーの『てっぽう水』の名前はこの逸話からきているそうです。
碑文
炭酸泉記
攝津國有馬郡湯山町杉谷有湧泉含炭酸瓦斯以故治胃弱
留飲疝癪風毒渇気鬱証及婦人諸病最有奇驗是係故梶
木源治郎翁所發見云翁夙轉庄屋為戸長専志開物適赴住
吉途上邂逅平野留吉留吉横濱人頻汲溪水學試之翁訝訊
之日有温泉處必有藥水翁翻然頓悟発見此泉元稱毒
水人不敢近翁盛之壜請縣廳經内務省司藥場検定遂開此
炭酸泉實明治六年也翁嘗改修住吉新道神戸新道或求癈
址充學校地域盡力地租改正或改架太古橋或請得湯泉神社
社格等利用厚生事實不遑枚擧也郷人徳其徳為建石泉
側要予文於是乎記銘日
(漢詩省略)
明治四十年九月
從三位勲一等 田中芳男男爵并篆額
從七位 織田完之書 東京酒井亀泉刻
道標が折れているのにも歴史があります
炭酸泉源正面入り口右脇には、源次郎が明治10年6月に建てた石の道標があり正面に「炭酸水」その下に「てつぽう水ともいふ」と彫られています。よく見ると途中で折れた跡があります。炭酸泉源が利用されるようになると泉源から炭酸水の輸送に馬の引く荷車が使われました。炭酸水を運んだ荷車を引く馬が突然、暴れ出し、道標にぶつかって折れたと言い伝えられています。
炭酸泉は飲むことができます
現在も銀の湯(市営浴場)で使われている炭酸泉源ですが、泉源の左にある蛇口から銀の湯の源泉を飲むことができます。 炭酸泉は18.7度の冷泉(鉱泉)ですので夏は冷たく、冬は生温く感じます。炭酸が含まれていますが微炭酸ですので残念ながら市販の炭酸飲料のようなシュワシュワする感覚はありません。鉄分が多く含まれるため錆びた水道のような味が先に来ますが、わずかに舌先にピリピリとした炭酸を感じることができまです。地元のご老人にお聞きすると「美味しかったよ。当時は砂糖は高価だったからズルチンやサッカリンを入れてサイダーがわりに飲んでいた。」そうです。今のように清涼飲料水がどこででも売られている時代ではなかったので楽しみだったそうです。
旅の思い出にぜひひとくち天然の炭酸を味わってみてください。